『海原』No.16(2020/3/1発行)誌面より
小西瞬夏句集『一対』
いちまいの光と影 若森京子
いちまいは蝶いちまいは光かな
第一句集『めくる』より七年目の第二句集『一対』の扉を開けると零れおちるかの如き第一句目。ひらひらと舞う蝶と光、光の裏には必ず影がつきまとう。蝶を暗喩として作者の、女性として人間として、光と影の間で常に抗いつついかに生きるか、どの様な発語で他者と自然の中で切り結んでいくか絶えず試行錯誤をくり返す小さな叫びの様にも思える。
小西瞬夏は香川大会において第一回「海原賞」を受け、舞台の上での長身の和服姿は大変美しかった。元教師の彼女が、やゝ饒舌に自身の俳句に対する姿勢を淡々と語る姿は私には芯の強さと共に深い淵から込み上げる呻きにも似ていた。
この一冊のあとがきにも述べている様に、自分が何かを見ている時、同時に自分はそれから見つめられている。その時生まれる感情を言葉にした時、その言葉の中で対象と自分が混り合い俳句が生まれる。その俳句が世界と自分との結び目となる。即ち瞬夏の肉体からの発語が俳句となって新しい世界を創造していく、いわゆる肉体を通して濾過された言葉、解説者の中原省吾氏の“もの派”“ことば派”の説から言えば後者であろう。
一頭の蝶一対の耳凍てる
この句から「一対」を題名にしているが、一頭一対のひびきの良さもあるが、耳から凍ててゆく静寂の中の淋しさ、儚さの中に一人の女性像を見る。
蝶ほど美と醜の二面性を明確に生きるものは他にいない。第五節からなる作品群の中、てふてふ、黒揚羽、初蝶、夏の蝶、秋の蝶、冬の蝶、凍蝶などさまざまの蝶をモチーフにした作品は四十二句もある。
てふてふの脚より生まれかなしめり
てふてふを白き凶器として飼へり
てふてふを逃がして朝の指の艶
“てふてふ”の表記には女性性が濃く内包されている。脚から生まれるのは逆児でありそれを嘆いている。白い凶器として飼うてふてふは、危険だが、半面艶っぽい媚を感じさせる。てふてふを逃がした朝の指の艶は正にエロスである。女の情念を思わせる三句。
自刃の間二畳を過ぎる黒揚羽
黒揚羽飼ふ函人形しまふ函
黒揚羽抓んで逃がす光かな
マゾヒストを思わせる自己の痛みに開張十センチ以上の全身黒に後翅の外線に赤紋のある黒揚羽をメタファーとした三句。“自刃の間二疊”の措辞には忘れ難い過去の暗い痛みの物語を。また自分が大切にしてきた人形の函に蝶を飼わねばならぬ悲哀を、また折角の一条の光を抓んで逃がさねばならない宿命を、人間の負の象徴として黒揚羽の三句だ。
しんしんことんしんしんことり冬の蝶
光踏み合うて冬蝶遊ばせる
肉挽いてをり冬蝶の匂ふなり
しんしんと冷える中ことんことりと密かに生きる孤独感がオノマトペでよく効いている。僅かに差す光をお互いに分けあって生きる慎ましさ、生活感溢れる肉を挽く行為の間にも女性の本能だろうか微かに香を放つ冬蝶。
父恋ふれば凍蝶に水堕ちゆけり
冬蝶嗅ぐ母の日溜まりありにけり
成人した女性の目で父を恋うたのか述懐の涙の様に凍蝶が融けてゆく女性特有の父へのオマージュとして水が堕ちてゆく。無臭に近い冬の蝶を、女として生きた日々を追憶するかの様にしきりに嗅ぐ母、“日溜り”の措辞から現在の母の安堵の日々がうかがえる、深い愛の二句。
にんげんをねむらすあそび蝶の昼
いにしへのひとのこゑ否蝶の昼
その奥の墓標の傾ぐ蝶の昼
真昼の蝶は一層影を濃くする。軽く“にんげんをねむらす”と言うが、ねむらすには死を指す場合もある。“いにしへのひとのこゑ”すなわちあの世からの人々の声であり現在と過去が一瞬結ばれた様に蝶は影を曳く。あの奥で少し傾ぐ墓標に舞う蝶は光と影が綾なして死者と生者の舞いである。あの世この世をことばによって妖しく結んでいる三句だ。
瞬夏と蝶の呼吸が見事に合っているのは確かだが、もちろん他にも沢山の佳句がある。
小鳥きて昼のからだをうらがへす
折りたたむ手足のかたち終戦日
雛の間にゐてわたくしをしまふ箱
幾本の紐跨ぎをり夜の素足
身に入むや煙のやうに詩のやうに
蛍を受くに差し出すからだかな
髪洗ふ平城京は火の匂ひ
絵日傘の中の耳たぶくらがりとうげ
水の秋みづくちうつしくちうつし
生きることは悩むこと、幸い日常から少し離れた俳句との出逢いにより彼女の精神生活は、肉体を通して智的な情念をかりたてて、この混沌とした世の中を呟きながらも強く生きてゆくであろう。
あとがきの後の頁や大枯野
年齢を重ねると共に展かれてゆく瞬夏の言葉の質感を、作品の未来を静かに見守りたい。 (敬称略)